終戦から80年が経とうとしている今、当時の体験や価値観を知る機会が大変貴重になっています。そんな中、「からふる」では10代で海軍に志願して入隊した元整備兵の男性を取材しました。戦時中は軍人精神を叩きこまれ、飛び立った仲間が帰ってこなくても「仕方ない」と感じていたそうですが、長い年月が経った今、男性の気持ちは大きく変わっていました。
高知県香南市に住む西森理三(にしもり・りぞう)さん、100歳です。大正13年(1924年)に上半山村=現在の津野町で生まれ、2024年12月に“百寿”を迎えた西森さん、自らが体験した“戦争”を人生の“節目”に語り継ごうと、このほど、取材に応じてくれました。
(西森理三さん)
「入隊は昭和19年の正月が過ぎてからすぐだった、1月の15日ごろだったかな。『当然のこと』と思って行ったわね、『お国のために働くのは当然のことだ』と。みんなにお祝い・お見送りしてもらって、宴会もしてもらって、『千人針』も作ってもらって行くんだから、当時の状況としては『おめでとう、おめでとう』と言って、みんな送ってくれた」
西森さんは1944年、19歳の時に海軍に“志願”して入隊しました。自宅には、当時の貴重な写真が残されていました。
西森さんが最初に配属されたのは当時、長崎の相浦にあった海兵団。ここで、西森さんをはじめとする「新兵」たちに、“軍人精神”が叩き込まれました。
(西森理三さん)
「それはひどい、今やったら犯罪もんや。叩かれて、叩かれて。(上官が)『軍人精神注入棒』という、野球のバットみたいな樫の木の棒を抱えてくる。ゴロゴロするぐらい。みんな、こんな姿勢でね、尻を出して叩かれるのよ」
新兵訓練を終えた西森さんは、その後、神奈川の横浜海軍航空隊に配属されました。“激戦地”といわれる南方の島々や中国大陸には渡らず、「整備兵」として、飛行艇のエンジン整備や分解などの作業にあたっていましたが、その基地も空襲を受けるなど、常に“死”と隣り合わせでした。
(西森理三さん)
「弾薬庫とか、重要なところへ『歩哨』が立っていた。空襲時でも。ところが、2分前に交代した人が直撃弾を食らって、肉のかけらも無かった。この部屋よりもっと太かったかな…大きな穴が空いていた。戦争というものは、すさまじいものやな」
その西森さんが作業する同じ航空隊内では、“ある飛行機”の整備が行われていました。
(西森理三さん)
「『特攻機』よね、1人乗って、軍艦へ急降下して、爆弾積んで突っ込むやつ。それを、横浜航空隊の別の部隊で整備していた」
「特攻機」とは、戦局が悪化した終戦間際の1944年から日本軍が始めた“体当たり攻撃”に使われた航空機のことです。特攻は命をかけたまさに必死の作戦でした。西森さんは同じ航空隊で行われていた特攻機のテスト飛行を見ていた時に、“敗戦”の雰囲気を密かに感じていました。
(西森理三さん)
「特攻機を横浜航空隊の別の部隊で整備していた。それ(特攻機)を試航するのに、何機も、海の中へドボンと落ちてね。ろくな整備をしてなかったろうね。そんな飛行機が試航で合格した後は、どんどん現地へ行ったけど、それを見ていた時に『これはもう長いこともたんわ』と思った」
西森さんは「飛行艇」の整備を担当していましたが、次第に、戦地から飛行機が戻ってこなくなったといいます。しかし、そこで感じたのは「さみしさ」ではなく、「仕方なさ」でした。
Q.帰ってこない飛行機がいたときは『さみしい』気持ちになるんですか?
「『さみしい』というよりは、『またやられたな』『あれもやられたか』。『人が戦死しても仕方ない』と思っていた。飛行機が無いようになって、仕事がなくなったから、そんな感情にはあまりならなかったな」
戦後80年がたとうとしている今、西森さんに海軍軍人の面影はどこにもありません。軍人精神を文字通り叩き込まれ、仲間が戦死しても「仕方ない」と感じていた西森さんの価値観は80年という年月により大きく変わっていました。
(西森理三さん)
「今にしてみれば、青春は、まっこと『お国のため』に費やしたなぁ。ひどい目にも遭ったし。『戦争したらダメだ』ということ、これぐらいみじめなものはないということだけは、知ってもらいたいわね。どんなことがあっても、戦争したらいかん。戦争は最低じゃ。人権だの何だのという話じゃないからね。戦争はいかんな。『戦争だけは、どんなことがあっても絶対にしてはいかん』ということだけだな、今思うのは」
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