戦後80年 つなぐ 戦争の記憶

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戦後80年 つなぐ 戦争の記憶

放送時間
毎月1回 夕方の「からふる」内で放送
番組紹介

テレビ高知では戦争を体験した方や情報をお持ちの方などを探しています。

メール: tsunagu_kutv@kutv.co.jp

「人が死んでも仕方ないと思っていた」ひそかに感じていた“敗戦の雰囲気”…100歳の元整備兵、戦後80年の“心の変化”

終戦から80年が経とうとしている今、当時の体験や価値観を知る機会が大変貴重になっています。そんな中、「からふる」では10代で海軍に志願して入隊した元整備兵の男性を取材しました。戦時中は軍人精神を叩きこまれ、飛び立った仲間が帰ってこなくても「仕方ない」と感じていたそうですが、長い年月が経った今、男性の気持ちは大きく変わっていました。

高知県香南市に住む西森理三(にしもり・りぞう)さん、100歳です。大正13年(1924年)に上半山村=現在の津野町で生まれ、2024年12月に“百寿”を迎えた西森さん、自らが体験した“戦争”を人生の“節目”に語り継ごうと、このほど、取材に応じてくれました。

(西森理三さん)
「入隊は昭和19年の正月が過ぎてからすぐだった、1月の15日ごろだったかな。『当然のこと』と思って行ったわね、『お国のために働くのは当然のことだ』と。みんなにお祝い・お見送りしてもらって、宴会もしてもらって、『千人針』も作ってもらって行くんだから、当時の状況としては『おめでとう、おめでとう』と言って、みんな送ってくれた」

西森さんは1944年、19歳の時に海軍に“志願”して入隊しました。自宅には、当時の貴重な写真が残されていました。

西森さんが最初に配属されたのは当時、長崎の相浦にあった海兵団。ここで、西森さんをはじめとする「新兵」たちに、“軍人精神”が叩き込まれました。

(西森理三さん)
「それはひどい、今やったら犯罪もんや。叩かれて、叩かれて。(上官が)『軍人精神注入棒』という、野球のバットみたいな樫の木の棒を抱えてくる。ゴロゴロするぐらい。みんな、こんな姿勢でね、尻を出して叩かれるのよ」

新兵訓練を終えた西森さんは、その後、神奈川の横浜海軍航空隊に配属されました。“激戦地”といわれる南方の島々や中国大陸には渡らず、「整備兵」として、飛行艇のエンジン整備や分解などの作業にあたっていましたが、その基地も空襲を受けるなど、常に“死”と隣り合わせでした。

(西森理三さん)
「弾薬庫とか、重要なところへ『歩哨』が立っていた。空襲時でも。ところが、2分前に交代した人が直撃弾を食らって、肉のかけらも無かった。この部屋よりもっと太かったかな…大きな穴が空いていた。戦争というものは、すさまじいものやな」

その西森さんが作業する同じ航空隊内では、“ある飛行機”の整備が行われていました。

(西森理三さん)
「『特攻機』よね、1人乗って、軍艦へ急降下して、爆弾積んで突っ込むやつ。それを、横浜航空隊の別の部隊で整備していた」

「特攻機」とは、戦局が悪化した終戦間際の1944年から日本軍が始めた“体当たり攻撃”に使われた航空機のことです。特攻は命をかけたまさに必死の作戦でした。西森さんは同じ航空隊で行われていた特攻機のテスト飛行を見ていた時に、“敗戦”の雰囲気を密かに感じていました。

(西森理三さん)
「特攻機を横浜航空隊の別の部隊で整備していた。それ(特攻機)を試航するのに、何機も、海の中へドボンと落ちてね。ろくな整備をしてなかったろうね。そんな飛行機が試航で合格した後は、どんどん現地へ行ったけど、それを見ていた時に『これはもう長いこともたんわ』と思った」

西森さんは「飛行艇」の整備を担当していましたが、次第に、戦地から飛行機が戻ってこなくなったといいます。しかし、そこで感じたのは「さみしさ」ではなく、「仕方なさ」でした。

Q.帰ってこない飛行機がいたときは『さみしい』気持ちになるんですか?
「『さみしい』というよりは、『またやられたな』『あれもやられたか』。『人が戦死しても仕方ない』と思っていた。飛行機が無いようになって、仕事がなくなったから、そんな感情にはあまりならなかったな」

戦後80年がたとうとしている今、西森さんに海軍軍人の面影はどこにもありません。軍人精神を文字通り叩き込まれ、仲間が戦死しても「仕方ない」と感じていた西森さんの価値観は80年という年月により大きく変わっていました。

(西森理三さん)
「今にしてみれば、青春は、まっこと『お国のため』に費やしたなぁ。ひどい目にも遭ったし。『戦争したらダメだ』ということ、これぐらいみじめなものはないということだけは、知ってもらいたいわね。どんなことがあっても、戦争したらいかん。戦争は最低じゃ。人権だの何だのという話じゃないからね。戦争はいかんな。『戦争だけは、どんなことがあっても絶対にしてはいかん』ということだけだな、今思うのは」

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国民服、軍人傷病記章、手紙や雑貨に東条英機の肉声レコード…戦争資料が語る戦時下の暮らし 戦後80年“つなぐ”戦争の記憶

2025年は戦後80年の年です。実際に戦争を経験した人が少なくなる中、当時の記憶を伝えてくれるのが手紙や生活雑貨などの「戦争資料」です。この戦争資料を収集し展示している男性が高知県芸西村にいます。

(野中麟太郎 記者)
「こちらの品々は全て戦時中に使われていたものになります、戦後80年が経った今では貴重な資料となっています」

軍隊で使われていた茶碗や海軍海兵団の卒業アルバム。芸西村文化資料館では戦時中の手紙や雑貨などいわゆる「戦争資料」を主に村内から収集しています。

たとえばこちらは当時の一般の人が着ていたという国民服。80年の時の経過を感じさせないほどしっかりとしています。管理・収集しているのは堀田幸生(ほった・ゆきお)さん(71)です。

(芸西村文化資料館 堀田幸生さん)
「これは軍人傷病記章、胸に貫通銃創で傷になって大変やったねというための記章ですね」

9年前から資料館の企画員として働いている堀田さん。当時、すでに村内での戦争資料の収集が難しくなっていたため、より難しくなる前にと独自に収集を始めました。

(堀田幸生さん)
「従軍して話をしてくださる方が96以上じゃないと、つまりほとんど生きてないという状態で、資料が集まりにくいですので、役場から出してる追悼式のお誘いの手紙の中に戦争資料があれば何かしら連絡してくださいという書面を一緒に入れて発送していただいて、お声がけをいただくということになってます」

集まった戦争資料は、もともと資料館にあったものも含めると現在およそ300点にのぼります。

こちらの分厚い本は芸西村出身の軍人らが現在の中国・上海で戦った様子を記録したもので、文章からは緊迫した戦場の様子がうかがえます。
「敵は逐次我ら包囲せられつつあり」

また、当時の空気感を伝える資料も。
「皇軍軍規の真髄はかしこくも大元帥陛下に対し奉る・・・」(東条英機元陸軍大臣の肉声)

東条英機(とうじょう・ひでき)元陸軍大臣の肉声が録音されたレコードです。

堀田さんはこれらの貴重な資料を「とにかく見てほしい」という思いで、毎年テーマを決めて企画展を行っていて、2025年のテーマは「戦後80年」です。

(堀田幸生さん)
「今までやってきた資料がだいぶたまってますので、1階の狭いところじゃなくて2階の広いところも開放して全品、戦争関係の資料が展示出来たらなと思って今考えてる最中です」

終戦から80年が経とうとしている今、悲惨な経験を語りついでいくことが難しくなっています。しかし高知の地方の小さな村、芸西村で集められた多くの「戦争資料」からは、「戦争」が確かに私たちの生活の中にあったことを感じることができます。

(堀田幸生さん)
「今も戦争のあるニュースを聞くんだけど、ただ聞くだけじゃなくて、目で見て確認できる、心にしみていくという大事な大事な資料じゃないでしょうかね」

「生活全般に戦争が染みわたっていたな、ということを見てもらいたいです。食器、新聞、レコードであったり、津々浦々なんで戦争一色になっていたんだということを考えてもらったら。普段の今の自分の生活に戦争がこんなにあったら嫌やろうなということを感じていただいたらいいかと思います」

堀田さん自身も71歳で戦後生まれということなんですけれども、小さな村からこれだけの資料がある、まだまだ各家庭に眠っている資料や証言などがあるのではないでしょうか。テレビ高知では戦争を体験した方や情報をお持ちの方などを探しています。

メール: tsunagu_kutv@kutv.co.jp